週末のノワール

 フィルム・ノワールの傑作とされる『飾り窓の女』(Womanin the Window, 1944米、1953日本)はVHSは1万円以上もして入手困難で、情報のみが先行して未見だった。
 先週末初めてWOWWOWで見ました。監督のフリッツ・ラングと主演のエドワード・G・ロビンソンジョーン・ベネット、そしてダン・デュリエが共通する、続編とも言える『スカーレット・ストリート』(1945米、日本未公開)はDVDで見て、ギャング映画などで貫録のあるふてぶてしい役を演じていたエドワード・G・ロビンソンの温厚な人物描写の演技が印象に残った。
 それが初見の『飾り窓の女』でも同様だった。温厚な大学教授が、クラブ(それなりの地位の人間が所属する、レストラン・宿泊施設もある場所)を出た後、飾り窓の肖像画とそっくりの美女と遭遇し彼女の家に赴く。そこで登場する彼女のパトロンともめ、正当防衛で殺してしまう。
 教授は死体を何とか始末するが、クラブで仲間の警部に捜査の進捗状況を聴いて気が気ではない。そこに殺された実業家のボデイ・ガードがあらわれ二人を脅迫する。その男の殺害にも失敗した教授は、服毒自殺を図る。
 原作(J・H・ウォリス)は、教授が死んだあと、クラブの仲間で知らずに教授に薬を提供した医者が、冒頭と同様肖像を眺めそれと似た美女に誘われるがそれを断って終わる。
 映画は、その事件がクラブでうたた寝をしていた教授の夢だと分かる。この結末を犯罪を犯す紳士をいうモラルに反する物語を避けたハリウッド的な中途半端なものと批判する向きもあった。
 しかし現在ではスラヴォイ・ジジェクが『斜めから見る』で展開しているような、この教授の夢の中が実は現実で、ラカンがよく使う荘子胡蝶の夢のように、夢の世界が現実だという解釈が主流になっているようだ。つまり現実世界の紳士の方が嘘で、夢の世界の殺人者が現実なのだと。
 このような解釈が最初は斬新に思えたナイーヴな?筆者(僕の事です)が、次第に賢らな俗流心理学に感じられてきたのは何故なのだろうか。