ベーグルころころ

アメリカ生まれの日本在住の詩人アーサー・ビナード氏による特別講演を聞いてきました。タイトルから日本語とアメリカの比較をユーモラスに話すのだろうと想像していたけれど、ユーモアの質が上滑りではなく、けっこう深い。かつアメリカ文学または文学研究者でなくても楽しめるいい講演でした。
 題目の「ベーグルころころ」はアメリカの詩人David Ignatow の "The Bagel"に因むもので、 原詩と日本語訳を紹介してくれた。ビナードさんが日本に来た頃は、東京でもベーグルはまだあまり知られていなかったが、今ではかなり知られるようになったので、「ベーグル」という日本語訳が使えます。後から調べたら「ユダヤ・パン」という呼び方もあったような。
 そして題目の後半に関する日本の昔話「おむすびころころ」の話。 こちらは日本食が寿司やてんぷらなどアメリカでも知られるようになったとは言え、「おむすび」もしくは「おにぎり」はまだ英語になっていなくて、かつ rice ball という英語では何か違う。その結果「おむすびころころ」の話はまだうまく英語に訳せない。それにおむすびと言っても、海苔を巻かない塩むすびと海苔を巻いたおむすびとでは地面に転がった時のイメージが異なるような気がするのは僕だけの印象だろうか。個人的には、塩むすびは昔カマドでご飯を炊いた時の底にこびりついたお焦げを塩むすびにした時の、お焦げの香ばしさと固さが味覚と舌と口の記憶として残っている。貧しい時代のおやつだった。
いずれにしても「おむすびころころ」という説話は、未知の、新しい、別世界に入っていく、不安と希望を表現しているのだと思う。『不思議の国のアリス』も同様だろうか、球体のもつ完全性とユーモラスなイメージが重要かと思う。
続いてパン(ベーグル)との連想で、「人はパンのみに生くるにあらず」という言葉から、心を満たすという役割を担うのが文学というを開陳。宗教もそうだけれどこちらの方は解決を提示する近道で、文学の方が曖昧だけれど、本当に満たされない心をいやすのではないだろうか。
悩みを癒す事に関連して、ブルースのFreddie King の"I Don't Know What to Do" を紹介し、繰り返しの意味と効果についての指摘。同様の繰り返しを使用した、恋多き明治のブルジョワ歌人柳原白蓮の「何を待つ / 誰待つ時を / 待つとても / 心足る日の / なしと知る知る」という有名な短歌を引用。次に、満たされない思いを繰り返しのレトリックで表現する、パウンドの "And the days are not full enough / And the nights are not full enough / And life slips by like a field mouse / Not shaking the grass." とその和訳を紹介。
 テーマでの日米の詩のつながり、日米やその他の文化とのつながり。インターテクスチャルでかつインターカルチュラルな講演はその語り口も含めてとても面白かった。日ごろ気になっているブラック・ミュージックにおける繰り返しの意味とその効果について関係する部分もあると、後から気付いた。