制度というフィクション

 マーク・トウェインの『王子と乞食』を読んでます。函館で開催される支部学会の発表で司会をするための準備。
 発表は貨幣と身分と言う2つの制度から作品を分析する。本来は商品価値が貨幣価値を決定するはずが、資本主義社会では貨幣の価値が商品の価値を決定するという逆転現象、思いこみが生じている。
 この思い込みが、身分制度においても見られという。つまり本来は何らかの実績や能力の評価からは始まったはずの身分制度が、身分が人の価値を決めるという風に逆転している。
 確かにそう。と言うか親子・家族・教育・政治・国家等々、世界は壮大なフィクションと、共同幻想で形成されているから。
 とは言いながらも、キャノン(正典)的な作品の読み直しは楽しく、かつためになります。この「取り替えばや物語」は同じトウェインの『まぬけのウィルソン」でもあって、黒人奴隷の女性ロキシーが自分の息子を白人奴隷主の息子トムと取り換える。面白いのはもともと奴隷の息子だった男の子が根性が悪い点。また取り換えが成立するのは、ロキシーが比較的肌が白く、また子供の父親は白人である点。さらに黒人が白人として生きて行く「パッシング」のテーマも内包している。
 『王子と乞食』に話を戻すと、ヘンリー8世の息子である王子エドワードを主人公とする教養小説とも貴種流離譚とも読めます。そこそこ王としての素質を備えてはいた王子が、乞食の少年としての下層社会での経験は王としての治世にとても役立った(現実にはありえないが、臣民の願望か?)。また身分の高い者が一時的に中央の世界から周辺に追いやられ、また戻る。そしてその経験が元々の身分に特殊な有効な資質を付け加えるという、ある意味ではよくある話です。
 身分制度という視点は分かるが、貨幣制度という観点は新しいかも知れない。