特別な自分という勘違い

 今の子どもたちは分からない事にストレスを感じないようにしているらしい。自分の分からない事は存在しない?と思っている節がある。これは学ばない事を合理化する手段に思える。普通ならば分からない事があれば調べたり、知らない自分の無知を恥じたりするが、そうではないようだ。
 これが「学びの場からの逃走」につながり、「オレ様化する子どもたち」に直結する。子どもたちは教育を受ける権利を義務と読み替えて、自分たちの労役(苦役?)の対価として効果を要求し、それに対する明確な回答が得られないので、不服従・授業の無視と言う行為で対応しているという。
 しかし学びと言うのは費用対効果と言う経済原理とは異なる位置に立つ行為であると再言しておこう。内田さんによれば、教育とは自分たちの知らない事を学んで、その過程において主体を構築していくダイナミックなプロセスで、学び終えた時に初めて自分が何を学んだかを理解できるレベルに達する。そんな事を教室で子どもたちに言う必要はない。説明してもいいけど。
 さてそんな子どもたちが当然のようにオレ様化していく。僕たちも自分は特別だと考える。でもそれは「(自分にとって)自分は特別な存在」だと分かっているのだけれど、どうも今の子どもたちはカッコなしで、条件なしで特別だと考えている節がある。地下鉄やバスなどの公共の交通機関での傍若無人な振る舞い。そこには場を共有している他者への配慮はかけらもない。
 このようなオレ様化した子どもたちが大人になる日は近い。と言うか、もうすでにこの子供たちはオレ様化した大人たちになって身の回りに跋扈しているかも知れない。
 しかし最初に戻ってもう少し考えてみると自分の分からない事は存在しないと思おうとしているとも考えられる。つまり世界が知らないことだらけでは困るので、とりあえず存在しないと思い込む。無意識に学びの契機を待っている部分もあるのではないだろうか。そんな風に教育的に考えた方がいいような気がするが。