教育と経済原理

 内田樹の『下流志向―学ばない子どもたち 働かない若者たち』(講談社文庫)について書こうとして2週間以上たってしまった。それは内田さんが参考としたという『オレ様化する子どもたち』(諏訪哲二著、中公新書ラクレ)を並行して読んでいるうちに、その指摘に共感して、マーカーを引き付箋を付けた部分が多くて収拾がつかなくなったからだ。でも何とかまとめてみよう。
 今の子供が学ばない理由は、子供たちが家庭や社会において主体を形成する最初の契機が消費主体として立ち現れた事によるとする。僕たちの子供の時は家のお手伝いやお使いなど家族と言う重要で最初の社会においてどささやかな労働をして感謝され貢献をしたと感じた。今の親たちは子供に手伝ってもらうよりも、勉強をしていい学校に行く事を望む。
 今の子供たちが最初に社会で経験する行為はたっぷりともらっているお小遣いを消費する経済行為となってしまう。未だ社会において何者でもないはずの子供がお金を持つ事により経済原理においては大人と対等な位置に立ってしまう。
 この快感を知ってしまった子供は教育の場においても自分たちの払う貨幣(勉強すること、一定時間教室においてじっとしている事、労役?)に対して、費用対効果を求める。
 教育とは経済行為とは眞逆に即座に効果が得られるものではないし、また学ぶこと自体が学ぶ者にとっても、学び終えて初めて理解できる事なので、この子供による幼稚な問いかけは無意味なのだ。
 しかし先生や大人たちは「これって勉強して何の役に立つの?」という幼稚だけれど原理的な問いにあたふたしてしまう。僕は教養教育の再考(再興?)について断続的に考えているけれど、特に専門教育との関わりにおいて、いますぐ役に立たないかもしれないけれど、長いタイム・スパンで考えればどこかで人生の重要な局面で学んでおいた事が参考になるよ。というような曖昧な表現でお茶を濁す事が多い。役に立つという効果的な側面ははっきり否定したいのだが否定しきれない。
 内田さんはコミュニケーションにおいても分からない事に耳を傾けて自分の分かる事の領域を広げていく事が重要と指摘しているが、これはその通りで教育にも当てはまる。
 今の子どもは分からない事があってもそれが苦にならないようになっているらしい。この部分は次の項で。