使える英語?!

 旧聞になるかも知れないが、土曜日の朝日新聞の朝刊に「学校で『使える英語』なんて幻想だ」という記事がオピニオンに載った。東大の斎藤兆史さんがインタビューを受けて、学校教育で英語が話せるようにならない理由を常識とは別な観点から語っている。
 中・高と6年間ならっても話せるようにならない。訳読中心の授業は役に立たない。会話をもっとやるべきだ。という意見が強い。しかし斎藤さんは学校で週3〜5時間時間程度で、日本語とは大きく異なる英語を習得すること自体が無理だと言う。
 学校では訳読中心に文法や読解について英語の土台を学べば、その後各自の目的や必要に応じて学習を積み上げて行って英語力と言う建築を完成させればいい。
 僕はほぼ斎藤さんと同意見です。英語だけでなく、学校教育だけでものになる科目なんてないと思う。公教育の基本は、学ぶ習慣をつける、いくつかの分野の土台をつくる、という事なのだろう。さらに言えばすぐ役に立つような知識をよしとする考え方から遠い所に教育の目標を定める事が必要だと思う。
 僕の数少ない経験でも、アメリカの大学で外国人留学生が英語を学ぶと時に、はじめは中東や南米の学生が会話が良くできる。しかし数週間経つと、はじめは会話が苦手だった日本の学生がリーディングもふくめて中東や南米の学生よりも英語ができるようになる。読解力は短期間ではつかない。しかし会話については英語の話す場にいれば比較的短期間で身に付く。
 とすれば、知的な高度な英語が読める日本の学生の方が長期的は分がある事になる。読解力のある学生は、日本語でもちゃんとした本を読んでいて、自分なりの考えを持っている事が多い。結局会話能力は、その人の母語での思考や知識がないと、挨拶やお天気の話題が終わった後のコミュニケーションにつながらないだろう。とすると教養的な英語の再評価が必要になる。
 わが英米文化学科の学生もその辺りの事を知ってほしいと思う。でも斎藤さんを人文学部の特別講演に呼ぶ事は難しいでしょうね。つてはあるけれど、学科の教育方針とは相いれないような気がする。