卒業審査と大学

 土曜日に卒業審査のための教授会があった。毎年3月10日に卒業生発表があるので逆算して土曜日の会議となったようです。人文学部は1部270名、2部80名の4年生のうち1割くらいは単位が足りなくて卒業延期となる。割合は2部の方が多いか。そして卒延をした学生は留年を繰り返す率が多い。
 28歳の時(1980年)に教養部講師として赴任し、1998年人文学部助教授として移籍?する時までは、2年生対象の学部移行の審査をしてきた。その時は全学1,700名くらいが対象となるので数時間かけての大仕事だったように覚えている。人文学部への移動は例の1991年におきた大学設置基準大綱化を受けての教養部解体の結果だった。
 で、そのまま人文学部にいたかと言うと、2001年から2006年にかけて人文から経済学部に移動した。経済学部は北海学園大学の中で一番歴史が古く、学生数も教員数も大きい学部だった。それに経済学部だけで学部の専門教育と共通教育を賄うべく、つまり一種の大学内大学を目指していた(と思う)ので移動してきた共通教育の教員を歓迎してくれたような気がする。こちらもまた大所帯の学部でカリキュラムの中心ではない教員として比較的のんびりして居心地が良かった。
 そして2007年の人文学部への再度の移動、何か出戻りのような気がしたが、この処置には大きな問題があった。と言うのは2001年の移動の時に、その時の学長がいずれはまた人文学部に戻ってほしい教員はいるけれど、戻れない人もいるので、その選別をするのは忍びない?ので、とりあえず全員一旦人文学部を出てもらうという処置を取った。僕はその時、誰が残るべきかそうでないかはそちらで決めてもらっていいが、このような将棋の駒を動かすような移動はやめてほしいと、学長に言った。しかし時の責任者は重要な決定を先送りにして、2001年と2007年の2回の無意味な?!移動を数名の教員に強いた事になる。
 大学の教員だけでなく、僕の大学教養部時代の仲間も、総合商社の一員として活躍しようと思ってM紅に就職した時にロッキード事件に遭遇したり、T海上火災に入ったら後にM海上に、さらにM・Sに変わったり、T銀行に入った友人は、T・M、そしてUFG何とかというように、もう名前を覚えるるのよそうという程、企業の再編・統合の嵐に巻き込まれてきた。
 ま、いずれにしても、どの時代に生きた人もその時代の中でその流れに巻き込まれたり、抗ったり、身を任せてきたりしたんだろうと思います。自分の生きた時代が他の時代よりも大変だったとは思わない。でもその時代の特徴はあるので、その辺りはきちんと認識していきたいと思うわけです。卒業審査に寄せての雑感?が何か、この間の教養部教員についての愚痴になってしまった。
 少々興奮した気持ちを宥めるための小さなパステル調のジクレー(デジタルなリトグラフ)です。このジクレーも小さな家の中で、あちこち置き場所を変えられているので、落ち着かない気持ちでいるかも知れない?!