告発の作法

 他者を告発する事は難しい。告発する自分をある種絶対的な善の立場に置いてしまうからだ。もっとも自分が正しい思わなければ人を告発できないだろう。しかし告発する人を客観的に描くには、その人物の全体を限られた時間内で説得的に捉える必要がある。告発する事件からカメラが引いてとらえる視点が重要となる。被害者もまた加害者となりかねないこの世界を全体として見るのが、告発の作法だろうか。
 2004年テネシー州に住む退役軍人(憲兵・軍曹)のハンク・ディアフィールドはイラクから戻った息子のマイクが失踪したとの連絡を受ける。ニューメキシコの基地へ向かったハンクはモーテルに滞在して事情を聴くがすぐに、マイクは切断され焼き殺された死体で発見される。しかし軍隊と警察の捜査は進まず、ハンクは自分で犯人を探し始める。
 『告発のとき』(In the Valley of Elah)の監督ポール・ハギスについては『クラッシュ』に良い印象を持っていなかった。LAを舞台に人種問題を手際よくさばいて描いた『クラッシュ』は評判を呼んだが、良くできたテレビの脚本のように、登場人物同士がお互いにむすびつくような都合のいい展開と、人間は善悪の二面性を持つというような表面的な哲学などが鼻についた。
 しかしあまり期待せずに見始めた『告発のとき』は、壁のように立ちはだかる軍隊に挑むハンクや、彼を助ける刑事のエミリー(シャリーズ・セロン)に共感する。『クラッシュ』と比べると物語の展開と方向がシンプルで、その分キャラクターの造形も彫りが深く際立つ。ハンクの寡黙で身の回りの事を黙々とこなす動作は元軍人である事を明確に表現する。招集された兵士でもなく、エリートの将校でもない、軍曹と言う階級がたたき上げの職業軍人としての誇りを表わすか。エミリーも男社会の警察と憲兵の両方に挑むという点ではハンクと同様だ。『告発のとき』に期待しなかったもう一つの理由は、元憲兵の父親が、息子が戦場で見た悪夢を想像できないという話が眉唾ものに思えたからだった。はっきり言うとその不満は払拭しない。
 原題のIn the Valley of Elahはエミリーの息子デヴィッドにハンクが聞かせる旧約聖書の巨人ゴリアテと少年兵士(後に王となる)ダヴィデの物語。ハンクもエミリーも軍隊という巨大な組織と戦うダヴィデという図式か。しかし邦題の告発は誰が誰に対してするのだろうか。戦場での過酷な経験から兵士同士の喧嘩がすぐに殺人に発展し、誰が加害者になっても、また被害者になってもおかしくないような精神状態の中で、息子は仲間の兵士に殺される。戦場で病んだ息子について知ったハンクは誰を告発する事もできない。戦争の闇と言う使い古されたテーマを描く監督の手腕に最後まで緊張して?みた。邦題には深い意味はないだろう。
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