Bluest Eyes

ポール・ニューマンが9月に83歳で亡くなった。エール大学の演劇部を卒業して、NYのアクターズ・スタジオに入り、TVに出演。ブロードウェーで『ピクニック』に出演して、ハリウッドに呼ばれ『銀の杯』でスクリーン・デビューと書くと順風満帆のようだが、先輩のマーロン・ブランドに似ている事が本人には不満だったらしい。
 しかし夭折したアクターズ・スタジオの先輩モンゴメリークリフトやジェームズ・ディーンと異なりポール・ニューマンは堅実に映画界に地歩を進める。『傷だらけの栄光』(1956、ロバート・ワイズ監督)、『左利きの拳銃』(1958、アーサー・ペン監督)、『長く熱い夜』(1958、マーティン・リット監督)、『熱いトタン屋根の猫』(1958、リチャード・ブルックス監督)と30才前後のポール・ニューマンの出演映画を振り返ると、その最初のピークが思ったよりも遅い事と、優れた監督に恵まれた事、ボクサーやアウトローなどの噴出するエネルギーをもてあます役所、そして意外にもフォークナーやT・ウィリアムズなど文学的な作品も多い。
 アクターズ・スタジオ出身のメソッド演技と言うか、今でも日本の若手俳優が無意識にまねる拗ねた若者の振舞いの原型がジェームズ・ディーンポール・ニューマンだった。しかしこんな風に二流の映画評論家または映画紹介屋が書く様な事をなぞってもしょうがないか。僕の一番好きなのは『ロイ・ビーン』(1972)から「評決』(1982)で彼が47歳から57歳くらいまでのポール・ニューマンだ。
 ポール・ニューマンの青く澄んだ眼は彼の最も大きな魅力だが、モンゴメリークリフトやジェームズ・ディーンのような正統派の2枚目ではない。額と顎のバランスは決して良くない。その鍛えられた腹筋はすごいが。ポール・ニューマンの存在価値はその容姿ではなく、自分の世界に違和感を覚えながら、そこを超えて行こうとする人の意志を体現するところにあると思う。
 で、40代後半から50代後半にかけてのポール・ニューマンはその風貌も円熟してきて、しかも『ロイ・ビーン』(1972)から「評決』(1982)の間の作品を、『マッキントッシュの男』(1973)、『新・動く標的』(1975)、『ビッグ・アメリカン』(1976)、『スラップショット』(1977)、『アパッチ砦 ブロンクス』(1981)、『スクープ 悪意の不在』(1981)と挙げてこの時代のポール・ニューマンの輝きを見ると、50代後半も悪くはないと、少しだけわが身にあてはめて思います。腹筋のトレーニングを再開しなくては。
 写真は『マッキントッシュの男』、48歳のポール・ニューマン。監督はジョン・ヒューストン、共演はドミニク・サンダ