100年目の三四郎

 漱石の『三四郎』は1908年(明治41年)の9月から12月にかけて東京朝日新聞に連載され、翌年5月に出版された。『それから』、『門』と並ぶ三部作と称されるが何故だろうか。『三四郎』は読むたびに自分の年齢や知識も異なるので、異なる読後感を持つ。今回読んだ時には冒頭の熊本から上京する列車で言葉を交わす老人や、一夜を共にする?女性が共に息子と夫を日露戦争で失っている事から、その戦争で日本は植民地化を免れ、西欧化を邁進する明治の終りにある事を理解する。
 『三四郎』を読む時は、鷗外を通して漱石を相対化する意図で鷗外の『青年』(1910年)をサブテキストとして並行して読む事もある。結果としては古臭さ、衒学性などが『青年』を読みづらくしている事が分かる。同じ様に深い学殖を持つにも関わらず、漱石の会話の読みやすさなど落語好きに由来しているのではと想像する。また明治の青年の世界に限定された『青年』と比較して、時代を超えた読者を引き込む世界観の広さを感じる。
 三四郎は広田先生の知の世界と美禰子のセクシャリティによってそれまでとは異なる世界に導かれ成長する。東大〜官僚・政治家という成功をある程度約束されたエリート予備軍が、出世の階段とは違う世界に生きる在野の知識人広田に影響を受けるのは三四郎自身がエリートの世界に違和感を覚えているからに他ならない。東大教授から当時は決して尊敬されてはいなかった新聞社のお抱え作家の道を選んだ漱石の経歴が反映しているか。また父親か夫の支配を免れなかった当時の女性としては破格の自立性(それは受け継いだ財産に支えれていたとは言え)を主張し実行する女性。
 この世間的には進むべきとされる道を選ばない主人公はその後の漱石の登場人物と共通している。しかしそのような生き方を選ぶ人間の不安は、明治と言う近代化を進める日本の不安の投影と見る。純朴な田舎の青年を翻弄する都会の女性美禰子が発する"stray sheep"という言葉は三四郎や美禰子の事、そして当時の日本の事をも象徴している言葉に思える。そして現代の多くの読者が漱石を読み続ける理由のひとつは、近代化を終えてポストモダンと言う迷妄の時代に生き続ける我々の生きる処方箋を彼の言説に見い出せないだろうかという切ない?思いなのでは。
 50年前の三四郎。『夏目漱石三四郎』(中川信夫監督、1955)の三四郎(山田真ニ)と美禰子(八千草薫)。