普遍語もまた亡びる

 水村美苗の『日本語が亡びるとき』(筑摩書房、2008)と「特集 日本語は亡びるのか?」(『ユリイカ』2月号、2009)をテキストに言語について考えてみた。『日本語が亡びるとき』については年末の風邪ひきの時に読んで、アイオワでのモンゴルやポーランドの詩人や哲学者が自分の言葉で語る場に出くわした経験についての第1章は面白く読んだが、第2章以下の面倒な議論はパスした。
 その後、知り合いのブログでの綿密な分析や、『ユリイカ』その他で取り上げられているので、再度挑戦。「普遍語」、「国語」、「現地語」という枠組みで水村はとらえているが、綿密な分析の後の結論は文部科学省も喜ぶような常識的なものになっているように思える。どうして第1章の言語の多様性を認めつつ、活発な現地語の使用、その中で国語が豊かになっていけばいいのであって、普遍語はツールとしての共通語ではだめなのだろうか。
 第一に普遍語とされるラテン語と英語では文化的背景が異なる。ラテン語は中世ヨーロッパの知的・文化的言語なのに対し、英語は19世紀後半からの覇権国家イギリスとアメリカの言語に過ぎない。そして「国語」は「現地語」(その国の口語俗語)が「普遍語」の翻訳を経て文化的に洗練された言語とされるが、普遍語が英語だとしてそれが知の図書館のように文化が蓄積されているかと言うと、決してそうとは言えないのではないだろうか。中世のラテン語のようにヨーロッパの知的言語ではなく英語は、フランス語・ドイツ語などと並ぶ一国語に過ぎない。そしてラテン語の前に新約聖書の言語としてギリシャ語もまた亡びた普遍語として存在した。英語などはたまたまこの1世紀半ほどの間、英米が世界の覇権国家なので、覇権言語としての有用性から共通語となっているだけだ。
 国語の持つ歴史的・文化的役割については重要だと共感する。しかし現地語の現在性については過小にしか評価されていない。国語が現地語のサブカル的な用法も含めてその現在性のエネルギーを利用しつつ、同時に普遍語の知的情報も得ながら、活性化する事が重要だと思う。つまり現地語や普遍語と自在に交通するという前提で国語が中心となる状態が望ましいのではないだろうか。