リアリティの表現

 このブログは日々の雑感(天候・食事・世の中の事など)と、文学・映画・音楽その他芸術系のもろもろをテーマとしています。で、お読みの方は分かると思いますが、自分の研究・授業の準備的な部分も多いです。つまりこんな風に考えられるね、考えてみるとどうかとか、思考のプロセスもお見せしているような。その辺、中途半端に理屈っぽくなる点もありますが乞うご容赦。
 この標題もそう。特にどの論文や授業に関すると決めている訳ではないけれど関心のある事です。サム・メンデスの『アメリカン・ビューティ』では主人公の家族も友人・近所の人たちのエクセントリックなキャラクターはリアルではない。現実にそんな変わった人たちが集まっている訳はない。しかしある種の寓意的な物語ではそのようなキャラクターの集合は成立するわけですね。その虚構の郊外家族と郊外住宅地での人間模様が現実を表現している。悲劇も喜劇として劇化できる。
 しかし『レボリューショナリー・ロード』のリアルさは物語や人物の悲劇性を増しこそすれ、何て馬鹿なの、もう少し考えれよ、突っ込みたくなる。観客の共感を拒否する物語作法なわけです。悲劇を悲劇として提出するためには注意深い人物の性格造形、ストーリーの展開を考えなければ成り立たないだろう。アメリカ人って、アメリカン・ドリームって何だかね、とイギリス人の監督が言いたいのなら成功しているか。でも主人公を演ずる女優が奥さんなので少なくともヒロインには監督と女優は共感しているのだろうね。だとすると・・・
 辛口のコメントなので画像は和み系で。ロフトで買ったアイビーとトポスの鉢を研究室で撮ってみました。