言葉の虚しさ

 『レボリューショナリー・ロード』見てきました。映画館は昨年の夏以来。水曜日は男性1000円。ソフトクリーム(250円)をなめながら上映開始を待つ。クレジットを見ると制作はDreamworksスピルバーグの始めた会社だ。その後Paramout系列のViacomにスタジオを売却し、Paramoutととの関係も昨年終了したようだが、この映画はパラマウント・ジャパンの配給。近年のメディアの再編はややこしくて昔のメジャー映画会社のシンプルさが懐かしい。
 さて映画はフランクとエイプリルの出会いと、結婚後のエイプリルが主役の市民劇団の旗揚げ公演の失敗までがアヴァン・タイトル。公演の失敗の後の夫婦の激しいやり取りがその後の映画の基調となる。その理由の多くは二人の意見の食い違いだ。意見の相違する夫婦なんて当たり前だが、この二人はそれをとことん議論をする。そんな言い合いなんて相互の了解や関係の改善につながりはしない。この言葉を信用しているようで、意味のない議論の激しさが舞台を映画化した『ヴァージニア・ウルフなんて怖くない』(1967年)を連想させる。
 また主人公二人の自分たちを特別なカップルだとする傲慢さが悲劇の原因の一つになる。特別だという自意識の背後にその裏付けとなるような才能などありはしない。映画の中では隣の夫婦のようにウィーラー夫妻は特別だと認めるが観客の僕はそうかなと画面の外から突っ込みを入れたくなる。そしてた郊外住宅地の他の住人とは違うと言う意識とそれ故そこには安住したくないという野心がパリ移住と言う妄想を生み出す。
 このパリ移住計画は現実的でないという周囲の反響を生み出す。でも考えてみるとパリと言うのは今住んでいるアメリカ東部の郊外ではないどこかのメタファーであると分かる。「ここではなないどこか」という定住拒否と移動願望もアメリカ人の国民性の一つだ。それを若いカップルがあまりきちんとした生活設計を持たずに、夫婦の合意を得ずに敢行しようとした故の悲劇だろうか。
 最後にフランク・ウィーラーってジョン・チーヴァーの"Country Husband"(「郊外族の夫」とか「郊外住まい」と訳される)の主人公フランシス・ウィードとよく似ている。フランクはフランシスの愛称。でもこちらではフランシス・ウィードの方が夢見る男で奥さんのジュリアンは現実派。郊外を描くにはリチャード・イエーツのリアルな視点よりも、チーヴァーやアップダイクのような一歩引いた大人の見方の方がその現実がよく見えてくると思う。
 まぁ『アメリカン・ビューティ』ではサム・メンディス監督はアメリカ郊外の住人の理想と現実をファンタジー的枠組みの中で誇張と揶揄を交えて描いたので観客としては外側からその悲喜劇を見ていられた。しかし『レボリューショナリー・ロード』ではリアルな描出になった分、大人になりきれない主人公の悲劇に観客として感情移入できず、物語の世界に入り込めない。
 画像はパリ移住を決めた後「売家」の看板が付けられたウィーラー家の住まい。