危うし家族

 アメリカの小説家ジョン・アップダイクが76歳で亡くなった。新聞でも『走れウサギ』が代表作となっているように「ラビット・アングストローム4部作」が最も重要な作品と言っていいだろう。確かに1950年代から80年代にかけて書き続けられたラビットと渾名される男の性の遍歴と、アメリカ的生き方と郊外生活を描き最もアメリカ的な小説として評価しうる。
 ここではアメリカ文学研究者の一人ととして、アップダイクのの短編についてふれてその特徴を考えてみたい。数年前に仲間とアメリカの短編翻訳集を出す時に流し読みしたアンソロジー10冊のうち7冊にアップダイクの短編が収録されていたおように、アップダイクは短編小説の名手と目される。実はアメリカでは短編小説が好まれる。雑誌『ニューヨーカー』や『ハーパー』を舞台に洗練された都会的な短編小説は都会の知的な文学好きの人々に好んで読まれ、作家も短編で生活を支えつつ、数年かけて長編に挑む。
 短編小説を渉猟していて気付いたのは家族のテーマが繰り返し書かれている事だった。日本の場合、夫婦とそこから生まれた子供たちからなる家族に関して、内実はともかく、制度と血のつながりからその安定性・永続性が保証されている。しかし離婚を繰り返すアメリカの家族では親の違う子供たち、別れた妻の家庭など、家族の形そのものへの疑問や不安が内包されている物語が多い。危うし家族。
 短編小説の名手と目されるアップダイクの作品にも家族の不安定さを描いた作品が多いが、そこではトリビアルな描写から哲学的な考察へと読者を導く。アップダイクって本当に文章がうまくてストーリーも面白く読ませる。若い時はそれが嫌だったが、今はその日常の描写が人生の深みに届くアップダイクの凄さが理解できるような気がする。
 例えば「別居」。別居を決めた夫婦が4人の子供たちにどのようにそれを告げるか。子供たちはどのようにどれを受け止めるかが、家の修理や食事の細部とともに描かれる。父親のリチャードは別居を告げる夕食の席で泣き出してしまいばつの悪い思いをする。しかし最もパセティックなのは最後に寝ている長男に告げた時に泣いて抱きつかれる場面だ。「どうしてなの」という息子の問いに父親は答えられない。家族とは親子とは何なのだろうか、という問いを作家は読者にも突き付ける。