理想と妄想

『レボリューショナリー・ロード』(翻訳、文庫)を読む。その面白さはこの作品自体の構成・文体・人物造形・ストーリーの他に、50年代の郊外を描いた小説・映画と比較しつつインター・テクスチャルに考えようとしているせいもある。例えば主人公のエイプリルの演劇に関する関心をチーヴァーの短編と重ね合わせたが、それって有閑ブルジョワ郊外族夫人の知的好奇心、文化への憧れを示すものなのだろうね。
 物質的な豊かさを手に入れたけれど何か足りない、それは中流階級の地位を担保する文化的価値だと無意識に考えてしまう主婦たち。と言うのは穿ち過ぎだろうか。その欲求は夫たちよりも重く感じられ、夫たちには共有してもらえない。これが郊外族小説・映画のポイントかも知れない。つまり男性からの視点はやはりチーヴァーの「郊外族の夫」をのぞいてほとんどない。瀟洒な郊外の住宅に閉じ込められた主婦の脱出願望が描かれる。
 とは言え、この作品の女主人公エイプリルの設定はあまり普通とは言えない。父親は銃で自殺をし、母親はアルコール依存症治療施設で亡くなる。このような背景を持つ美しい女性と言うキャラクター造形には何か意味がある?彼女の演劇と郊外脱出、それもパリに引っ越すという突飛なプランはどこか現実感を欠いている。
 夫のフランク・ウィーラーはコロンビア大学出身のサラリーマン。ニューヨークで事務機器の会社に勤める。これが父親が務めていた事務機器会社なのだが、父親がそこそこ出世をしそうになりながら転勤などで平社員で終えるというような物語が『セールスマンの死』を思わせる。コロンビア大学出のエリートながら出世にも関心を持たない、妻にリードされるある種無気力な青年。
 この夫婦のパリ移住計画はエイプリルの第3子妊娠で頓挫する。そしてそれを突破するエイプリルの強引な解決方法が悲劇を呼ぶ。その手段そのものにはふれないが、この物語全般に比喩的な子殺しがいくつも描かれている。家族の住居を斡旋した不動産を営む中年婦人の息子は家庭内暴力で精神病院に収監中だが、物語の最後では両親から見捨てられる。またウィーラー夫妻の二人の子供たちは影が薄く、エイプリルもあまり子育てに熱心とはいえない。親が子供に関心を抱かないのは、親自体がまだ子供であるからという理由が想像できる。
 そのようなアダルト・チルドレンを生み出す社会そのものの未成熟さを指摘しても問題は解決しないだろう。60年代の作家が書いた50年代は決して近い過去への郷愁なのではなく、今なお求められ続けるアメリカン・ドリームの虚構性を予言したものと言えるかも知れない。