「越境と郷愁」の意味


1997年ロンドンで柄谷行人の『言葉と悲劇』を読んでいた時に気になっていたのは個と共同体の問題に関わる以下の引用だった。それは12世紀ザクセン出身のフランスの修道僧サン=ヴィクトルのフーゴーの「学習論(ディダスカリコン)」の一部だった。

 祖国を美しいと思う人はまだ青二才である。けれどもすべての地が祖国であると思える人はかなりの強者と言え る。しかし全世界を異郷と思える人は完璧である。

 何故かこの引用が頭に残り、その後いろいろな人が同じ部分を引用しているのに出くわす。ドイツ中世史を専門とする阿部謹也を初めとして、アウエルバッハ、サイードトドロフなどが同じ文を引用している。
 そこで言われているのは、「共同体の思考」、「コスモポリタンの思考」、「共同体をこえた思考」であると思う。

 半世紀以上も生まれた土地を離れた事にない僕個人は「どこに行ってもそこが祖国である」という中級レベルにも達していないのだが、この小さな脳髄の中では常に越境し共同体を超えた思考を目指している。

 で郷愁については説明できない。越境と全く反対のベクトルは人間の原初の状態へのノスタルジアなのか、自分の個人的な過ぎ去った時間への思いなのか判然としないまま、「越境と郷愁」と名付けてしまった。

 一つにはジョビンの「想いあふれて」があるが、原題がChega de Saudadeで「サウダージはもうたくさん」という意味になるらしく、それは郷愁とは真逆の意味にもなりそう。

 後付けの理屈ではあるが、矛盾する2つのものを抱え込んで行く事はポストモダンの現代において必要な作業でもあるとして、 ここは解決のつかないまま(これも必要?!)、ガル・コスタの「想いあふれて」でも聞こう。

 
 テニス・コートと背景の紅葉です。
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