「情けは人のためならず」の問題

前項で公園の掃除について、それって自分のためにやっていると書きました。その時に頭に浮かんだのが「情けは人のためならず」。これって今「情けをかけることは、その人のためにならない」と間違った意味で理解している人がかなりいるらしいけれど、もちろん本当は「人に情けをかけるのは、その人のためになるばかりでなく、やがてはめぐりめぐって自分に返ってくるから、人には親切にせよ」という教えです。
 でこの正しい意味の教え自体が、結局自分のためになるという事も臆面もなく主張している利己的な格言なので、僕としてはいやらしいと思う訳です。つまりめぐりめぐって自分に返ってこないなら人に情けはかけないのと、突っ込みたくなるでしょ。同じような突込みに対しての反論もネット上であるけれど、それがいきなり「人は一人では生きられない、社会としての相互扶助が必要だ」という論拠でした。論拠として主張している事は正しいのだけれど、この格言への反論(僕もふくめて)への反論となっていない。
実はこの格言の解釈についても前半と後半の関係性について厳密に考えれば、そんなに悪くはないとも言えるんですね。つまり「人に情けをかけるのは、その人のためになる」からであって、「やがてはめぐりめぐって自分に返ってくる」事を前提としている訳ではない。しかしこのいろんな因果が絡む世間では純粋に人のためにかけた情けもめぐりめぐって自分に返ってくる事もある。「そんな事もなくはないから、またはそんな事がなくても、人には親切にせよ」と考えればいいんですね。
それとセネカの「善行の報酬は善行を行った事である」をある種の補助線として考えてみると善行をしたと言う幸福感も大いなる報酬と言えます。それと善行を人から認められると言ういわゆる他者承認もあるでしょう。それだけあれば、わざわざ人から善行を受けなくても十分です。
 そう考えると「情けは人のためならず」の本義も、「やがてはめぐりめぐって自分に返ってくる」からではなく、「情けを人に施した事」が自分にとっていい事であると言っているとも考えられる。つまり流通している意味自体が功利的な解釈で本来の意味は、現実的な教訓ではなく、もっと哲学的な行為とその意味または報酬について言っているのかも知れません。

僕としては気になっていた格言の誤用、正しい意味への反論、反論への間違った反論、そして正しいと考えられている意味への疑問などいろいろと考えさせられました。格言ってやっぱりそんなに深い事を言っている訳ではない。けっこう現実的な行動規範なので、道徳やモラルよりも少しせこいかな。「自分のためになる」かも知れないというおまけをくっつけておかないと、シンプルに「人のために何かしなさい」と言えない。
それと前項でふれた情報が有効なネットには、情報でなくて考え方については意見の違いはもちろんあっていいのですが、理屈として正しいかどうか検証できないでアップしているので注意する必要があります。