遠い戦争

年末の朝日新聞の「第1次世界大戦の遠近法」(12月31日15面)を読んでの感想です。確かに今年で100年たつんですね。初めての世界大戦となったのは、大量破壊兵器の導入とともに、次第に拡大していった結果として世界大戦であったという側面もあるようです。文学や映画ではこの最初の対戦は様々に描かれています。卒論で扱ったヴァージニア・ウルフなどモダニズムの作家や、アメリカ文学ではヘミングウェイフィッツジェラルドなど大戦に参加したり、戦後の「ロスト・ジェネレーション」と括られる言わば「アプレ・ゲール」という戦後のモラル喪失の一般的な傾向を文学的に表現したりしています。ウルフが1941年に入水自殺をしたのは、第1次大戦で大変な悲劇を経験した世界がまた第2の大戦に突入した愚行への絶望もあったようです。最近BSで何度も放映しているスピルバーグの『戦火の馬』は騎兵と最新兵器が混在した戦争である事が分かります。
 日本に関して言えば、参戦はしたけれど戦地は遠く、列強諸国が欧州に釘付けの時のアジアの空白を利用して、アジアの大国となり、帝国をめざし結果的には15年戦争につながったような気がします。この記事でのキーワードは、「スパイラル・モデル」と「遠い戦争」です。「スパイラル・モデル」は小規模の衝突が紛争となり、戦争に拡大していくプロセスです。今の日本が抱える竹島尖閣諸島という2つの領土問題が戦争の原因になるとはだれも思わないでしょうが、自国の領土と考える場所に相手の軍隊が侵入すると、武力で対応する可能性はなくはない。その時点では誰も戦争という言葉は意識に上っていないとしても、それが衝突から紛争のような規模に拡大する可能性はあるのでは。ま、そこから戦争へは発展しないだろうけれど。
 しかし局地的な衝突が紛争・戦争へ拡大する可能性は、当時よりもミサイルなどの攻撃能力の進歩により大きなっている事が指摘されています。紙面での「遠い戦争」は、今の日本にとって第1次大戦が戦死者の規模などを含めて、ある種当事者意識の薄いという意味で使われています。しかしこの言葉はアメリカが20世紀後半に繰り返してきた戦争に当てはまるような気がします。アメリカは1941年の真珠湾から2001年のニューヨーク同時多発テロまで自国が攻撃された経験を持っていません。しかし如何に列記するようにアメリカは常に戦争またはそれに準ずるような事態を本国以外の場所で引き起こすか、経験してきています。
朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争アフガニスタン戦争、イラク戦争があり、それをはさむように、エル・サルバドルの政権交代に介入、ニカラグアのサンディスタ政権に対しゲリラ組織コントラを支援、グレナダに派兵、パナマに侵攻、ソマリア派兵、ハイチ介入、ボスニア爆撃、スーダンを攻撃、ユーゴスラビア空爆
 この絶え間のない戦争もしくは爆撃または軍事的な介入については反体制的な知識人(古い言葉かも知れません)として筋金入りのノーム・チョムスキーも指摘しています。たしか9.11以後のアフガン戦争開始時の発言だったと思います。因みに英文科出身としては、彼の作った生成文法のごくごく初歩を習った記憶があります。
 で、つまるところこの戦争・紛争・爆撃・介入は、自国が戦場とならない前提で、アメリカの正義を押し付けようとしてきた事になるのではないでしょうか。