誰が物語を語るか?

 文学と映画の関係を考えているけれど、フィルム・ノワールの特徴と言われている「ボイス・オーバー」は映画の語りの特徴でもある。フィルム・ノワールの代表作『深夜の告白』(ビリー・ワイルダー監督、1944)でも冒頭に深夜のオフィスでディクタフォン(口述録音機)に向かって瀕死の主人公ウォルター・ネフ(フレッド・マクマレー)が語る言葉が画面外から流れる。この語りが三人称のカメラ・アイと一人称の主人公の間をつなぐというか、時には『深夜の告白』のように主人公の語りの手段となっている。
 しかし主人公の代わりに、語られる別の人物のボイス・オーバーの例を同一の俳優が演じていたので面白いと思い書き留めます。それは『ショーシャンクの空に』(フランク・ダラボン監督、1944)と『ミリオン・ダラー・ベイビー』(クリント・イーストウッド監督、2004)でのモーガン・フリーマンだ。『ショーシャンクの空に』では、主人公アンディ(ティム・ロビンス)の刑務所内での友人レッドとして、ボイス・オーバーでストーリーを語る。アンディの脱獄の秘策とその後の予定については、友人のレッドも知らされていない。観客はレッドと同様、宙吊りの状態で、エンディングまで進んでいく。
 『ミリオン・ダラー・ベイビー』ではボクシング・ジムを経営する主人公フランク(クリント・イーストウッド)の友人役エディとして、モーガン・フリーマンが時に女性ボクサーのマギー(ヒラリー・スワンク)に寡黙というか口下手なフランクの気持ちを代弁したり、物語の見届け人としてボイス・オーバーで説明役となる。
 小説なら主人公ではない語り手を設定すればいいのだが、映画では語りはボイス・オーバーの手法を取ることが多いので、主人公の回想よりは、主人公以外の人物による主人公の意図や性格の説明に使われるような気がする。とりあえず。