アメリカ文学の行方

 土曜日の午後、北大に文学部のS先生が主催する「翻訳ワークショップ」を聞き行きました。けっこうひどい吹雪。午前中は院生を対象に翻訳の実践授業だったようです。午後が教員3名のシンポジウム。同志社から呼ばれたFさんは新潮社から翻訳を5冊ほど出しています。ここでも何回か紹介していますが。
 彼の「翻訳文学化するアメリカ文学」というタイトルを話を聞きながら考える。アメリカ文学と言うのはアメリカの作家が英語でアメリカの物語を書くと言うのが基本だとすると、彼の訳している作家は中東、南米、東欧の若手作家が母国語ではない英語で、自分たちの物語を語る訳です。これってアメリカ文学なのという疑問もある。
 でもこれまでアメリカは世界をアメリカ化しようとしてきたけれど、この現象はアメリカが文学を通して世界化を迫られているようで面白い。質疑の中でこれらアメリカの外から来た作家の英語の非正統性が、また制度としての英語を揺すぶると言う指摘も興味深い。作家としてのアイデンティティ(そんなものがあるとして)についても知りたいような。一部の作家は母国語でも書いているような。ま、英語で書いて有名になれば、母国語でも書く機会も増えると言うマーケットを意識した戦術もありえるかなと。
 途中から聞いたカミュの『異邦人』の日本語翻訳について自由間接話法など文法的な事と、翻訳という2か国語間の移動の問題、代名詞や付加疑問文の解釈など面白かった。『異邦人』だけでも様々な翻訳のある日本と言うのは本当に翻訳大国で、これは決してよそからの借り物だけという意味ではなく、外部からの知識や情報に貪欲ないい意味での開かれたあり方だと思いますね。