地味に、ひっそりと

 新年の所感なんて言うと、首相や大統領などがするものなので、元旦の感想です。(朝日)新聞を読むとアメリカの学者がアメリカが不況を脱出する唯一の方法は中間層の復活であると語っている。確かに格差や富の偏在を改善するプラグマティックな手段だと思う。それで社会は一時的に安定するとも思う。でもそれって抜本的な解決方法とは言えない。
 一方別な紙面を見ると「脱成長のすすめ」という欄で、フランスの学者が「ローカル化」を推奨している。つまりグローバル経済から距離を置き、地域の経済や文化を再生する考え方です。この考えは1970年代の地球は有限であるというエコロジー的視点の延長です。大量生産・大量消費は資源の枯渇や文化の破壊につながる。
 豊かさの意味を問う、対照的なアメリカと欧州の例ですね。アメリカはあまりグローバリズムとは言わない。アメリカ自体が世界だと考え、アメリカニズムを普遍的なものとして世界に押し進めようとしてきたから。しかし今は国内の不況が半端ではなく、それへの対処にオバマ政権も追われている。その回答が如何にもアメリカ的で、プラグマティックな対症療法で長期的なビジョンはない。
 一方、日本も含めて世界ではグローバリズムの推進が声高に唱えられているけれど、その中身は定かではない。曰く企業や人を世界に送り出し、世界から日本に世界の様々な人や組織を取り込む。でもこのようなグローバル化は文化的な越境よりも、経済的な成長や富の拡大が主たる理由で、しかも恐らく得られた利益は日本と言う一国家ではなくて、一部の企業や金持ちの懐に入るのだとしたら、何のためのグローバリズムなのだろうか。
 もしかしたらこのグローバリズムは、過去に内政の失敗を戦争や国内外国人(ユダヤ人や在日の人たち)のせいにするのと似たような構造ではないだろうか思ったりもする。震災の後始末や予防、原発の廃止や代替えエネルギーの将来的展望などのような重要なしかし辛気臭い問題を先送りして、幻想的な将来を語るための装置としてのグローバリズム。そんなグローバリズムではなく、地道なしかしささやかな未来に向けてのローカリズムをしっかりと語る事の方が重要なのではないだろうか。
 新年に際して、少し真面目に考えてみました。