書評の作法

 『文春』の「私の読書日記」に池澤夏樹がアップダイクの書評についての心得を紹介していた。作者の意図を理解すること(当り前か)、十分な引用をする事などが挙げられている。後者については日米の雑誌と新聞が書評に割くスペースの違いから、書評そのもの対する見識が分かる。
 ニューヨーク・タイムズの日曜版の重さが思い出される。不動産情報や経済欄など無関係な紙面も多いが、それにしても書評欄は充実していた。全部きちんと読んでいた訳ではもちろんないけれど。
 ついでに『ニューヨーカー』に掲載した書評を集めた『アップダイクの世界文学案内』(東京書籍、1994)を眺めてみると、作家と批評家の違いについてさすがにアップダイクらしい比喩で的確に指摘している。
 芸術家は世界とさまざまな精神とをとりむすぶ。批評家は単に精神と精神とをおりむすびにすぎない。
 世界との熱い絆に対する敬意が批評の試金石と考える。振り返って(そこには何もないかも知れないが)自分では映画や音楽について書く時に、基本的には評価する対象を取り上げる。その価値のないと考える対象の欠点をあげつらっても、書き手にとっても読み手(いるのかな?)にとっても時間の無駄だ。
 取り上げる時は、単なる説明に終わらない、何かポイントになる点を指摘する。その表現にも注意を払う。
 映画批評では芝山幹朗。この詩人の批評のレトリックは、飛躍しているようで的確。『レイチェルの結婚』を論じる「絶望も希望も安売りしていない」など。
 音楽では近田春夫。言葉に対するセンスのいいミュージシャンが音楽評論についてのベストな人選だと思う。かれの「考えるヒット」はあまりはずれない。
 さて小説の書評では誰がいるだろうか。