ハイスミスの悪意

 パトリシア・ハイスミス(Patricia Highsmith, 1921-95)は、ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(1951)で注目され、ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』(1960)で一躍有名になった。しかし、その後の映画界やミステリーの世界で取り立てて話題になる事はなかった。作家の書斎やインタビューを扱った記事を読むと、人嫌いの世捨て人のようなおばさんだった。しかしそのミステリーとも純文学とも言えない小説はもっと評価されてもいいと思う。
 今ではよく知られているかも知れないが、『太陽がいっぱい』は完全犯罪成功に喜ぶ主人公トム・リプレイに警察が近づく印象的なシーンで終わるが、原作では逮捕されず、連作の主人公として活躍?した。そして1977年にはRipley's Gameが『アメリカの友人』としてヴィム・ヴェンダーズによって映画化される。今度のトム・リプレイはデニス・ホッパー。彼に犯罪に引き込まれるジョナサンに『ベルリン 天使の詩』(ヴェンダーズ監督)のブルーノ・ガンツ
 ハイスミスによるトムの造形は普通の人間の悪意の表出だ。つまり『ノー・カントリー』における究極の悪とも言えるシュガーとは異なる。ま、普通とは言ってもモラルは皆無に等しいが。Talented Mr. Ripley(賢いりプレー氏)は、頼りになる身内や友人もいない、学歴もない、しかし数字に強く偽の収税吏を演じて小金を稼ぐけちな詐欺師だった。
 Ripley's Gameは2002年リリアナ・カヴァーニ監督で再映画化されている。何とトムはジョン・マルコビッチyoutubeで予告編が見られるが面白いトムになりそう。トムはデニス・ホッパーのようなすぐに暴力に訴えそうな肉体派よりもマルコビッチのような頭脳派の方が原作に近い。
 『太陽がいっぱい』の方は1999年にマット・デイモンのトムで再映画化。これはアラン・ドロンの卑しい美貌の方が勝ちか。金持ちの息子ディッキーに対する羨望と嫉妬をドロンはうまく演じていた。と言うよりもドロンが演技以前に持つ雰囲気(彼の出自や言動)がまさに役に当てはまっていた、頭脳明晰の部分は別として。
 で新作のRipley Underground(2005,原作翻訳題名『贋作』)のトムはバリー・ペッパートミー・リー・ジョーンズの監督・主演作で重要な役を演じていた。これは『太陽がいっぱい』と『アメリカの友人』の間に入る作品で、トムは亡くなった画家の贋作を売る仲間の一員として、画家に扮して記者会見に臨む。トムの変身願望は『太陽がいっぱい』にも通じる。
 トムの特徴は、悪い人間にも善の部分があるというつまらない観点ではなく、普通の人間(モラルはないが)が犯罪を犯しつつ、普通の世界で生きているという事になるだろうか。小説では事件が起きるが、トムはそれ以外の時は、絵を描いたり、ハープシコードをひいたり、旅行をする、ごく普通の金持ちだ。その金は犯罪によるものと、結婚した妻の実家からの援助だが。
 ハイスミスについては小林信彦が繰り返し評価するコメントを書いている。イギリスのルース・レンデルの悪意や意地の悪い人物の表現がハイスミスに似ているような気も。
 只者ではない事が写真からも伺える中年の作家。