幻視の作家チーヴァー

 アメリカの50年代、郊外について書き続けているような気がする。その流れの中に入るだろうか、亡くなったアップダイクと並び称されるニューヨーク派のジョン・チーヴァーの作品について書いてみたい。ニューヨーク派と勝手に名付けたが『ニューヨーカー』(1920年代創刊週刊誌、今でも100万近い購読者がいる)を舞台として活躍したジェームズ・サーバー(1894−1961)、チーヴァー(1912−82)、サリンジャー(1919−)などの事です。
 その中で屈指の短編の書き手とされたアップダイクとチーヴァーであるが、アップダイクの徹底したリアリズムに対してチーバーは、その代表的な短編を読んでみるとどこかリアリズムとは異なる奇妙な味が潜んでいる。アップダイクの流麗な文章はイメージも豊かで一見リアリズムとは見えないが、その作品世界にチーヴァーのような奇妙な味の入る余地はない。しかしチーヴァーは代表的な作品すべてに大なり小なり幻聴・幻視が描かれている。
 「非常識なラジジオ」(The Enormous Radio)ではマンハッタンのアパートに住む30代の平均的なカップル、ジム&アイリーン・ウエストコット夫妻が主人公。幼いこどもが二人いて、その内ウエストチェスター(ニューヨーク郊外)に家を持ちたいと考えている。彼らはクラシックが好きでよくラジオを聴いているが、もともとあるラジオが故障してしまい、ジムが買ってきた新しいラジオは大きくて、けばけばしく、つまみのたくさんついた代物だった。何とかそれを使いこなすようになったが、ある時ショパンのプレリュードの合間に男女の会話が聞こえてくる。ラジオ・ドラマか何かと思っていると、別の会話が聞こえ、それはアパートの住人の声だと分かる。聞こえてくる会話は、お金が足りない、病気になった、奥さんを殴った、など騒々しくも悲しい(滑稽な)なもので、家にいるアイリーンはつい聞いてしまう。帰宅したジムは金遣いの荒い妻に小言を言いながら、自分たちの夫婦喧嘩もラジオでアパートの人に聞こえるのではと心配すると、ラジオは何事もなく普通のニュースをしゃべりだす。
 この作品はマンハッタンのそれなりのアパートに暮らしている人々の決して理想的とはいえない現実を描く、物語の枠組み自体が奇妙なテイストを持つ、ユーモラスな短編と言える。他の作品は全体としてはリアリズムのトーンの中で一瞬幻視が挿入されるのでそれが印象深い。少し遠回りだが、「泳ぐ人」を経て、メイン・テーマ(?)の「橋の守護天使」と「郊外族の夫」を見ていきたい。で、多分、「泳ぐ人」でこの項を終えて、残りの2作品については次の項でふれます。1つの記事が長いと読みずらいので。
 「泳ぐ人」はアメリカン・ニューシネマの時期に映画化されたのでチーヴァーの作品としては比較的一般にも知られている。作家本人もカメオ出演をしている。フランク・ペリー監督、バート・ランカスター主演。フランク・ペリーは『リサの瞳の中で』(1962)と『去年の夏』(1969)で有名。ランカスターはこの時55歳で、原作の30代とは少しイメージが違うが、その鍛えられた肉体をわが身を顧みて?羨ましく感じた。ある夏の日曜日に友人の家のプールでジンを飲んでいるネディ・メリルが友人・知人のプールを15個泳ぎついで家に帰ろうという突飛な計画を立思いつく。距離は8マイル!?12〜3キロあるんだけれどわれわれの感覚でいえば2,3キロだろうか。自宅はブリット・パーク(チーヴァー連作の架空の町)にあるのだが、そこまでのプールのある家が多いという事実も日本人にとっては不思議な気がする。映画に登場するそのプールはそれほど大きくなくてほっと?するが。最初は行く先々で歓迎されるが次第に何か招かれざる客になっていく事に気づく。メリルの知らない彼の経済状態・家族の不行績が原因のようだ。つまり家々のプールを泳いで行く数時間のうちにもっと長い時間がたってしまったという設定。
 この凝縮した時間の中で家に帰りついたメリルは荒れ果てた誰もいない我が家を見てしまう。チーヴァーの作品の中ではダイレクトに郊外族の不毛な、破綻した人生を描いた短編となっている。メリルの健康で男性的魅力にあふれ、仕事も家庭も順風満帆というのは表面だけで、その裏では徐々に人生の崩壊が準備されていたというのだろうか。この「泳ぐ人」もまたアンソロジー・ピースなのだが、チーヴァーの本骨頂は次で紹介する2編にあるような気がする。ってずいぶんと引っ張るような展開で気が引けるが。
メリルが水のないプールで少年に泳ぎを教えるのは何のメタファーなんだろう。