アメリカ文学における亡霊

 仙台空港で牡蠣フライとごはん(とビール)ののち、列車で約25分で仙台駅へ。駅直結のメトロポリタン・ホテルに荷物を預けて、エスプレッソで一息ついて、タクシーで5分ほどの東北大学片平キャンパスに向う。このキャンパスは初めてだが広くて緑が多くて気持ちがいい。
 会場入口で村上支部長にお会いする。会場ではシンポジウム講師の清水事務局長、伊達副支部長とごあいさつ。去年お世話になった白百合の山田先生や、今回の企画の中心人物の松本先生ともごあいさつ。
 さてシンポジウム司会の馬場先生(国士舘大学)の趣旨説明はなかなか堂に言っている。僕の考えている個人の記憶と国家の歴史と亡霊の関係にもふれる。1番手の清水さんはジェームズ・ボールドウィン強迫自責としての亡霊について語る。ご自分個人的な事情もあってか「兄弟モチーフ」と「無意識に愛する者の死を願う」事について熱く。このbrother's keeperという考え方は、聖書のカインとアベルに始まって、ジョイスゴッホの弟、そして音楽でもTVドラマでも繰り返し描かれている。
 次の伊達さんはゴーレムというフランケンシュタインの原型となった目に見える亡霊について話す。このユダヤの土像という目に見える怪物と亡霊はどうつながるか。
 大東文化大学の中垣さんは、トウェインの『アメリカの爵位主張者』と「霊の肉体化」について18世紀後半の科学の発達とそれに沿いつつ逆行するような疑似科学としてのスピリチャズムについてについて話す。トウェインのいくつかの小説は複数のアイデアが整理されず、構成としては破たんがあるが面白い。
 最後に司会と松本先生が言及されたように、亡霊は人のいるところにしか現れないというのは、生きている我々とのコミュニケーションを求めているのか。読書も文学研究もある種過去の作家つまりは死者との対話なのか、うまくまとまらないけれど興味深いまとめであった。